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10時にかけた目覚ましをさらにシカトして11時に起床した。ここ数日の睡眠負債を返済するかのような眠りこけっぷりである。イベント前後は神経が高ぶるためか、寝付きが悪かったりして6時間程度も眠れていないことが多かったのである。
11時。朝と昼の中間のカレーを食べたあとは、母の買い物やらなんやらに付き合ってポスフールに出かけたり甥に誕生日プレゼントを渡しに行ったり、季節限定のココナッツクリームおやきを3人分買って父の事務所へ突撃しコーヒーと一緒にいただいたり、庭の水やりをしてひまわりとコキアの驚くほどの成長ぶりに目を細めたり、ガレージのウッドデッキに座って半分弱だけ仕上がってきた庭の景色をただ眺めたりして夕方まで過ごした。
いやほんと、ひまわりはとうに私の身長を超え見事な花弁を見せつけており、コキアに至ってはソフトバレーボールより2まわりほど大きくなっている。ここまで来るとアホみたいなサイズである。大きすぎて周囲の景色を入れないように撮影するのが困難なため、そろそろここにすら上げられなくなってきた。そのうちむりやりズームででも撮っておこうとは思うのだが。
さてなんと言えばいいのか、今日1日はとても気持ちが安らいでいた。こんなに安らいだ気分の1日はいつぶりだろう…というと大袈裟だが、久しぶりに日曜日というものを心から満喫したような気がした。仕事は一切していないが、だからこそというか、ただ穏やかな日であった。
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しかし、心の安らぎが「減ったな」と感じる瞬間が1つだけあった。
そう、Twitterを眺めている時間である。1日を振り返ると、ふとスマホでTwitterを見ているときだけ心の幸福度が下がったのを、はっきり実感したのである。あのありがたい安らぎが減ってしまったのである。
これには理由がある。人間の言葉にはどうしても感情が乗っかるためである。
インターネット空間、とりわけTwitter(X)のようなSNSでは人々の言葉が縦横無尽に飛び交っている。さて言葉とはなんだろうか。大抵の場合、わたしたち人間の言葉には感情が乗っかっている。冷静で、なんの抑揚もないフラットな口調で話していたとしてもそれは表面的なことであって、どんな人間でも大抵はなにか感情と一緒に言葉を吐き出すものである。そしてTwitterは、そうした数多の人間の感情が言葉と一緒に”るつぼ”となって蠢いている場所である。いち人間にとって本来、そこは安らぎとは程とおいところではなかっただろうか?
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わたしたちは現状、こうした「感情の乗った言葉」と接することにあまりに無防備すぎると正直思う。知らず知らずのうちに受けているストレスは半端ではないと思う。私にしてもそうである。「暇だな」と思ったらやっぱりTwitterを見てしまう。そして眺める度に、それまであった心の安らぎや落ち着きのようなものをスポイルしてしまうのである。よせばいいのに見てしまう。そういう、勿体ない、自制の効かないことばかり毎日毎日やっているのである。
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さて、インターネットで気をつけるべきことの第一は言葉であると私は思う。「若者たちは本を読まない」という言説があり、「いやいや、SNSやLINEでむしろたくさんの言葉に触れているんだよ」と肯定的に見る言説もまたある。そこでわたしが言いたいのは、若者だろうと大人だろうと、感情的で制御されていない言葉の海に、心身の準備なく日常的に飛び込むことはもともと危険ではないかということである(ネット規制の話ではない)。
「そこに書いているのはただの文字である」というくらいの開き直りがなければ、耐性のないひとは、次々流れてくる世界情勢やらなんやらのニュースにすぐ心を摩耗してしまう。さらにそれを朝から見てしまったのであれば1日安らぐどころではないに決まっているのである。それでもわたしたちは朝からTwitterを見てしまうわけである。多くの人間にとって、ネットを眺める時間の長さとタイミングは再考の余地があると私は今日1日の出来事で強く感じた。わたしたちは、苦しみにさえ執着してしまうものである。
それを見る1日のタイミングや目的、利用時間についてそろそろちゃんと考えねばならないと今日ついに思ったわけである。仕事のこともあるが、ここ数年でTwitterをぼけーっと眺めている時間は私も随分増えてしまったという反省がある。体感的に、Twitterをいじらなかった日のほうが幸福度というか安らぎ度は高いと感じているのであるから、やはりもっと意図的に制御しなければなるまいと思った1日なのであった。
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眠る。自分としてはYouTubeとTwitterを根城にしているところもあり、結局言葉を使って人とコミュニケーションしている。人間は言葉を使う。それは仕方ない。であれば、どうせならよい感情を言葉に乗せることが1つ肝要なことと思う。たくさんのひとが聞くのであればなおさらである。たとえ表面的にガサツな言葉であっても、理性とおもいやりが乗っかっていれば心地よいコミュニケーションがそこにあるはずである。私のコンテンツがひとさまにとって「ああよかった」という類のものであってほしいと切に願いながら、今日の日記を終わろうと思う。
眠る。おやすみである。

