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ここ数日はかなり溶けている。数日とはいっても2日程度のことではあるが、かなり意図的に、溶けに溶けている。2日間の内一瞬だけ仕事のメールを出したりメモを書いたりしたがそれのみで、あとはたまーーーーーーーにだけじっくり見るクリシュナムルティという西洋の哲学おじいちゃんの動画をYoutubeで日本語字幕付きで嗜んで過ごしつつ、気が済むまで散歩して過ごしていた。
わたしはこのおじいさんのはなす「無我」の話が好きだ。クリシュナムルティはとくに仏教の人というわけではないし、本人も「仏教の話をしています」と宣言しているわけではない。むしろ「そういう固定観念なしに議論しましょう」というスタンスの人物なのだが、話を聴けば聴くほど仏教の「無我」の話をしているように聞こえる。
「このひとは預流果(仏教で言う、悟りの段階の第一番目の悟り)に達しているのではないか」という話もある。客観的に確かめる科学的な方法はないのだが、こうまで堂々と話しているさまを見るにつけそういう話も信じてみたくなるのが個人的な心情である。そのくらい、氏の語り口にはハッとさせられる点が多々あるのであり、溶け切っている時分に聴くにはある意味でちょうどよいのである。(講義1本1本が1時間ほどあったりするので、時間があると自分で思っているときしかなかなか見なかったりするのである)
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仏教でいうところの「私」とはなにかというと、「見る・聴く・嗅ぐ・味わう・触れる・考える」という6つの感覚を観測する別の主体が存在するという錯覚のことである。ポイントなのは「自分がいるなぁ」という実感があることと、「それがほんとうに存在する」ということはまるっきり別の出来事だということである。
一方、クリシュナムルティの話に「ある考えと、それを考えているあなたは異なっていないのです」というフレーズが折りに触れて登場する。「観察している対象と、観察者は異なっていないのです」(たしか、こんなかんじ)。
それだけ聴くとなんだか難解なフレーズなのだが、これは言い換えると「”考える”という行為をしている、【私】という別の主体がいるというのは誤解であって、実際には”考えている”という感覚がそこに生まれているだけである」ということである。伝わるだろうか。
とにかく感覚が生まれた時に、「わたしが見ている」「わたしが触れている」「わたしが聴いている」という風に、”わたし”がサッとどこかから横入りしてくるのである。わたしたちは、こうした感覚や記憶の連続のことを「わたし」と呼んでいるわけである。
で、無我を悟るとは、「実際にあるのはこうした現象の流れなのであって、私と呼べる主体は存在しない」と発見することを指す。(今これを書いているのは、まちゅむらが自分の理解を整理したかっただけである)
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で。昨日今日と動画を見ていて面白かったのは「取り組む」ということについてである。これを書いているいまは夜の2:00なのだが、もう少し書きたい。
わたしがある問題に直面している。問題に取り組むとき、そのままやるとどうしても「私が、問題に取り組む」という図式になる。しかし話によると、この「取り組む」ということで問題は更に悪化し、混乱するというのである。
わたしがなにかに対して怒っているとする。
「怒っているのはいやなので、この怒りを消そう」とアプローチするとする。
しかし、「消してやる!」というのはそれ自体が怒りなので、さらに怒りが追加されることになる。
結果的に、「怒るまい、怒るまい」と思ったところで、もっと気持ち悪くなったり、落ち込んでしまう結果になる。
問題に「取り組む」と、却って問題が固定化されたり深刻化してしまう。であれば、「取り組む」ではない方法でトライする…いや、「トライ」自体をやめてしまう必要がある、という、これはそんなお話である。ではどうするのか….そこで「観察する」という話がでてくるのである。え!それって仏教じゃーん、などと私は思ったりするのであった。
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自分で書いていてちゃんと説明できているのかだいぶ怪しくなってきた。変な感じになる前に眠ってしまおうと思う。
ねむる。おやすみである。

