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「本当はこの世に誰もいない」と言われたら、あなたならどう思うだろうか。何言ってんだろう、と思うだろうか。
松村としては、実は、これが結構ホッとするのである。今日はこの話をしよう。
今日は1日中バナンザをやり込んで収集要素をほぼコンプリートしてしまったという日曜日の充実ぶりだったので、仏教デッキを浅めに展開して最高の締めにしていこうと思う。
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仏教は「すべての悩みは”わたしがいる”という誤解から始まります」と言っている。わたし、という気持ちがあるから「わたしが傷ついた」「わたしが悪口を言われている」「わたしが馬鹿にされている」「わたしのものが取られた」…などなど、様々な苦しみがとめどなく湧いてくる。ざっくり大筋を言うと、そのようなストーリーラインである。
こうした「よくよく調べたら、“私”と呼べる実体はどこにもないよ」という仏教の発見のことを無我と呼ぶ。「諸法無我」とか言ったりもする。気がする。
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小難しい話は抜きにして、わたしは「無我」の話を聞いたり思い出したりするとき一番ホッとする。なんというか、ああ、それでいいんだ、と思う。
誰もいないのだったら、いままで俺は誰に気を使って生きていたんだろう、なぜあんなに悩んでいたんだろう、という、すごく気持ちがアースされた感じになる。敢えて言葉で説明するとそんな心模様である。
私はひとりでいる時間が好きだ。誰にも気を使わなくていいからというのが主な理由である。これは裏を返すと、「だれかがそこにいる」と思うと、それだけでちょっと心を使ってしまうということであり、勝手に疲弊しているわけである。好きにしていればよいのに、勝手に疲れている。
私は別に「他人に気を使って生きてきましたよ」というデキた人間ではないのだが、一人が好きということは、結局は世間とかヒトに対して、よくわからない気の張り方をしているのだろうと思う。
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もし「無我」という話がそのとおりなら、ガチでほんとうの意味で、誰もおらんということになり、この「気を遣う」みたいな疲れ方自体が無意味ということになる。気を遣う「わたし」も、気を遣う「そいつ」も、どちらもおらんので当然である。
シンプルに、誰とも対立しなくて良い、誰にも身構えなくて良い、誰にも怯えなくて良い、という心の状態は、すごく救われた状態だと思う。
誰もいないんだからそんなに気を張らなくて良いんだ、という、とてもシンプルな安穏を推測するだけでもこれだけホッとするのだから、実際に無我を悟った場合どれほどホッとするのだろうかと検討もつかない。悟りを開こう、というと崇高な感じになってしまうのでちょっと違うのだが、人間として生きている間に「心底ホッとする」という状況をちゃんと自分の心につくってあげることは、自分にとってとても切実なことだと思ったわけである。
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お得意の仏教デッキを開いた割には要領を得ない内容になったものである。
寝るのである。皆しあわせでありますように。悩み苦しみが、なくなりますように。

